91视频

91视频
HISTORY

谁もやらない技术课题への挑戦

これは创业メンバーで现社长でもある
古屋尧民の不屈の物语。

1960s

宝饰用から工业用贵金属への転身。
実家ガレージでゼロからのものづくりが始まった。

宝饰用から工业用への転身

フルヤ金属の始まりは古屋堯民の父 昌則が始めた古屋商店で、貴金属の販売や貴金属装飾品の製作?販売をしていた。その後法人化され、株式会社フルヤ金属が設立された際、事業拡大に向けて「営業職の最前線に立ってみないか」と声をかけられたのが堯民であった。持ち前の営業力で得意先へのセールス拡大や新規開拓に奔走するも、宝飾業界としては後発の小企業であるフルヤが安定的な利益を出すことは困難であった。そこで、堯民は昌則社長に対して、「事業の中心を工業用貴金属に切り替えるべき」と進言、専門商社として工業用貴金属を取り扱うようになった。

工业用贵金属分野のメーカーとして第一歩

业容を変えても壁はすぐに立ちはだかる。商社として市场で存在感を増すほどに、仕入れ先である金属メーカーとの间で贩売先のバッティングが起きてしまうのだ。取引にも支障が出始めたため、尧民は自社で製造机能を保有する覚悟を决めた。とはいえ场所も设备も技术もない。そこで尧民が目を付けたのが当时の本社、父亲である昌则の自宅に併设された车库だった。「この车を売って、车库を空けてくれませんか」。尧民の本気の言叶に突き动かされ、昌则は车库のスペースを工场化。これがフルヤのものづくりの出発点となった。

EPISODE

絶対にあきらめない
“しつこさ”で技术者を説得

ものづくりの场所を确保し、机械も入手したが、当时のフルヤ金属には肝心の技术者がいなかった。手探りで製品を作り始めるも限界がある。こうしたなか、尧民が手を尽くして见つけ出したのは、すでに製造现场を退いた元ベテランの技术者だった。腕利きとの评判だったが、工场を辞め别の仕事について7年。今更ものづくりに戻る気はないとの返答。しかし、フルヤにとって、ここで技术者を确保できるか否かは死活问题でもある。自らを“しつこい”と分析する尧民は一度や二度の断りではあきらめず、ついに职人の协力を取り付けることになった。

1980s

国内では対応が难しい
加工难の希少金属に挑む。

需要拡大に合わせて工场を新设し、生产増强

日本に家庭用VTRが登場し、本格的な普及に向けてメーカー各社がしのぎを削っていた1970年代後半から1980年代は、規格ルツボ※の製造を始めたフルヤにとって幸運な時代だった。 VTR用のヘッド素材を作るために、当時求められていた底が尖った特殊な形状の先尖型ルツボの製造に取り組んだ。この特殊なルツボの開発?販売を通じて、フルヤは大手家電メーカーからの信頼を獲得。ガレージでの製造では追い付かず、生産力増強のために第2工場を設立した。

※化学分析や高温処理を行うための耐热容器

背水の阵で临んだイリジウムルツボ修理

规格ルツボの开発を契机に、フルヤの営业にはメーカーから多くの相谈が舞い込むようになった。その一つが、「使用済みのイリジウムルツボを修理できないか」というものだった。当时イリジウムを扱う会社は日本にはなく、製品の入手も修理も海外に頼るほかなかった。コストもかかるため日本で完结させたいというメーカーの要望を受け、尧民らには4つのルツボが託された。しかし、バーナーであぶってもびくともせず、热しすぎると水蒸気爆発を起こす…その加工の难しさに技术者は头を抱えた。あっという间に3つのルツボが大破するも、尧民らは「顾客の要望に何とか応えたい」という强い思いで试行错误を重ね、见事修理に成功。営业と技术が一体となった瞬间だった。

イリジウムとルテニウムを事业の柱として育てる覚悟で社长に就任

1987年8月、尧民は2代目の代表取缔役社长に就任した。工业用贵金属分野をさらに発展させていくためには、入社以来一贯して営业を担い、関係业界からの信頼も厚い尧民が适任という経営阵一同の判断だった。尧民はフルヤ金属を「もっとすごくいい会社にしよう」と决意。就任后すぐに他社がやっていないことに积极的に挑むこと、事业の柱を复数育てて事业基盘を盘石にすることを明确に打ち出した。その象徴が、まだ需要の芽も出ていないイリジウムやルテニウムへの継続的な开発投资だった。

EPISODE

谁もやってないからこそ
大きな可能性がある

貴金属の调达における対外決済や輸入業務を依頼していた商社から白金族元素であるイリジウムとルテニウムの情報を得た堯民は、「こんなすごいメタルがあるなんて」と惚れこんだ。ところが、その希少性や加工の難しさから、なかなか用途が見つからず、長い間、販売には結び付かなった。しかし、持ち前の反骨精神で「誰もやっていないからこそ、成功すれば大きな成長につながる」と考える堯民は、普通なら見過ごしたりあきらめたりしてしまうようなマニアックな領域であろうと、そこに眠る可能性がある限り挑戦し続けていく。そんな堯民の強みが存分に発揮されたことで、後のフルヤ金属の柱となる事業が誕生した。

1990s

希少な原料と需要増に応える
リサイクルモデルという発想。

会社がつぶれるとまでいわれた大规模工场の设立

日本経済がバブル期に突入するのと並行して、VTR向け需要はさらに拡大していった。約100坪(約 330㎡)の敷地にある本社と工場は、確実にキャパシティーの限界を超えていた。そこで堯民は多額の費用を投じ、およそ7,000坪(約2万3,000㎡)となる「つくば工场」の建設を決断。生産工場を一気に拡大したが、当時の同業者からは身の丈以上の投資で会社がつぶれるだろうと言われていた。しかし実際には、フルヤの生産量はさらに拡大。つくば工场は現在に至るまで製造?開発の要としてフルヤ金属の発展を支えている。

回収したものから新たに精製するリサイクルモデルの完成

金属の中でもとりわけ希少なイリジウム?ルテニウムを主力事業とするフルヤでは、事業が軌道に乗ればその分、调达の不安が付きまとい、コストもかかる。そのため、フルヤはルツボ製造を始めた1980年代から使用済みの製品を回収して再資源化する回収精製の研究に着手。複数の素材が混入する化合物の中から該当素材を高純度で取り出し、精製する独自技術を編み出すことに成功し、事業拡大の大きな一歩となった。ちなみに、現在は ルテニウム約40t、イリジウム約10tを年間に回収する能力を持っており、これは、世界の産出量に匹敵する回収精製能力である。

EPISODE

“谁もやらない”に
挑むことが近道に

回収精製は当初外部に委託していたが、スケジュールやコストの観点で効率化を図るには、製品加工の内製化が必要であった。それが実现できたのは、イリジウムをはじめとした超高温域に対応できるプラズマ溶解装置があったからである。「他社と同じことはやりたくない」という基本姿势をもつ尧民は、国内外の金属メーカーで一般的だった真空溶解装置ではなく、プラズマ溶解装置を导入していたのだった。当初、装置メーカーからは「使用できるようになるまで2、3年はかかる」と心配されたが、フルヤの技术阵は不屈の精神でわずか8か月で本格稼働にこぎつけ、従来よりも高品质なルツボを製作。フルヤ金属の大きな强みとなっている。

2000s

新たな用途开発を顾客とともに模索し、
最先端の产业を支える。

新技术の开発に向けて研究开発施设を设立

1998年、つくば工场の敷地内に研究開発施設が完成する。その目的の一つは、貴金属ルツボに続く次代の成長分野の一つと位置づけていた薄膜技術の研究開発であった。薄膜技術は、当社オリジナルの銀合金素材「APC※」へと花開き、その後の用途開発によって、光ディスクや液晶パネル、LED、タッチパネルなどの反射材?電極材として注目されていった。

※础笔颁:银合金ターゲット材(当社は银合金ターゲット材の名称について商标権を有しています)

共同研究も进み新たな用途开発へ

フルヤ金属の研究开発の中核拠点となった「つくば研究开発センター」は、现在は技术开発に加えて顾客向けの成膜受託サービスも提供している。半导体の製造に欠かせない贵金属ターゲット材は、フルヤ金属にしか成しえない技术であり、金属の素材特性を付与することで、础滨にも対応するような高性能半导体や电気自动车など时代の最先端をいく製品の量产化に贡献している。営业と技术が両轮となって顾客の要望をスピーディに形にしていくことが、フルヤ金属の开発力のもとになっている。

2020s

悲愿のプライム上场を果たし、
パブリックな会社として社会に贡献し続ける。

社长として谁よりもチャレンジしてきた

创业时5名だった社员は、今や海外のグループ会社を含めて400名を超えている。そんなフルヤがジャスダック市场に上场したのは、2006年。フルヤの未来を见据えると、创业以来の亲族経営からパブリックな会社にしていくことが重要と考えた尧民にとって、工业用贵金属専业メーカーとして初となる上场は感慨深いものだった。2023年には念愿のプライム上场も果たし、永远のベンチャー公司として「イリジウム?ルテニウムで世界一」を掲げた。谁もやってこなかったことに挑み、独自の道を切り拓く。尧民の思いはフルヤ金属の顿狈础となって、社员全员に受け継がれている。

トップに戻る